「Spot」は,ボストンのスタートアップ,Boston Dynamics社が生み出した4足歩行の多目的AI搭載ロボットです。同社にはソフトバンクグループが資本参加しており,昨年無観客で行われたPaypayドームの野球の試合で複数台のSpotが外野席で応援していたのをニュースでご覧になった方もいらっしゃると思います。このSpotはAIによる学習が可能であり,非常に拡張性が高く,目下,オランダでは,麻薬捜査「犬」の役割を担うために「トレーニング」されています。その昔,SONYのアイボが愛玩ロボットとして人々に愛されていた時代からイノベーションは進み,いまやロボットは私たちの社会問題を解決するために活躍するようになってきています。
同社は,ボストン近郊にあるMIT(マサチューセッツ工科大学)でロボットと人工知能を研究していたMarc Raibert教授により1992年に設立されました。2013年にGoogle社が買収し,その後2017年にソフトバンクグループが買収。さらに2020年には現代自動車グループがソフトバンクからその大部分の株式を購入しました。大手資本家がスタートアップ企業の経営に参画する。まさにシリコンバレーのTech系スタートアップの成長パターンと同じです。
あまり知られていませんが,ボストン近郊は1970年代,カリフォルニアのシリコンバレーに匹敵するTech系スタートアップの集積拠点でした。当時のTechスタートアップは電子機器産業が中心で,東海岸ではボストン近郊の「ルート128」[1]沿いに,西海岸では「シリコンバレー」に集積していました。シリコンバレーは,スタートアップを育むエコシステムが醸成されたことにより,80年代,90年代,00年代とその時代の移り変わりに応じたTech系スタートアップが起業し,飛躍し続けています。一方ルート128は,古くは,American Research and Development Corporation (ARDC)などスタートアップへの投資家がHaneywell社,DEC社などを育て,この地域の発展を支えていましたが,シリコンバレーに比べ,エコシステムの構築で遅れをとりました。その理由は,東海岸は西海岸に比べ伝統的な社会であり,大企業の閉鎖性が人材の交流や流動性を阻害し,スタートアップが起業しづらい風土であったと指摘されています。
このように一時は遅れをとったボストンですが,この地には世界から最先端の知識を持った頭脳が集まっています。ボストンは,近年地方政府が支援したインキュベーターが大学の人材輩出能力と結びつくことにより,再びイノベーションのエコシステムを生み出しました。現在,ルート128はロボティクスやライフサイエンス分野においてかつての輝きを取り戻しています。
[1] https://thriveglobal.com/stories/the-other-tech-valley-bostons-route-128/
ニューイングランド
ピューリタンが築いた街
1630年,信教の自由を求めて新大陸を目指し,イギリスを旅立ったピューリタン(清教徒)の船が,マサチューセッツ湾に到着しました。彼らはこの地を,故郷であるイギリス・リンカーンシャーの街の名にちなんで「ボストン」と名付けました。ボストンはアメリカで最も古い街と言われています。この街にはアメリカ最初の公園であるボストンコモン(1634年),アメリカ最初の公立学校であるボストン・ラテン・スクール(1635年),アメリカ最初の地下鉄(1897年) などがあり,ボストンは常にアメリカ社会をリードしてきたと言えるでしょう。そして,アメリカ独立戦争ではボストン虐殺事件やボストン茶会事件など,その後のアメリカの進路を決定した歴史的な出来事が起こります。独立後,ボストンはアメリカにおける製造業の中心地となり、重要な貿易港の一つに発展して行きました。ボストンを中心とする東海岸一帯は,ニューイングランドと呼ばれ,アメリカにおいてもイギリス的な風土を色濃く残す伝統的な社会と認識されています。
世界で有数の大学街
ボストンは,ボストン都市圏(Greater Boston)の中核都市で,480万人が住む全米第11位の都市圏です。ボストンは35を超える大学が所在する世界でも有数の大学街で,15万人以上の学生が住んでいます。ハーバード大,MIT大,タフツ大,ボストン大など世界的な名声を誇る教育・研究機関が集積していることはこの都市の重要な特徴です。
世界の将来を担う優秀な若者が,カフェやレストラン,バーに集う活気のある街。それが現在のボストンです。コロナ禍において大学街の飲食店は苦しい状況が続いていますが,ワクチン接種が進み,少しずつ今までの日常が戻り始めています。ボストンの大学も2021年秋学期から,以前のような対面授業を再開できる見通しです。
ボストンの再開発とスタートアップ・エコシステム
優秀な頭脳が集うボストンには,ライフサイエンス,ロボティクス,人工知能・ビッグデータ解析,ITなどのスタートアップが集積しています。新型コロナウィルスのmRNA型のワクチンをいち早く開発したモデルナ社もボストンのスタートアップです。
JLL社の調査[1]によれば,ボストンはライフサイエンス分野のスタートアップにとってシリコンバレーを抜いて,全米で最も望ましい立地場所とされています。ボストンの中心部には2つのスタートアップのハブがあり,起業家を支援する環境が充実しています。チャールズ川の北側,ケンブリッジの「ケンダル・スクエア(Kendall Square)地区」と,フォート・ポイント運河より南側サウスボストンの「シーポート(Seaport)地区」です。そして,世界的なミューチュアルファンドであるFidelity Investmentなどが所在するボストンの金融街は,両地区の真ん中に位置しています。
シーポート地区は,サウスボストンのイノベーションを担う中心的な地区として,ボストン市の主導で1000エーカーを超す大規模な再開発が進んでおり,GE社は2018年この地区に本社を移転させています。
ハーバード大やMIT大があるケンブリッジのケンダル・スクエア地区には,今日のボストンのエコシステムの発展に重要な影響をもたらしたCIC (Cambridge Innovation Center)があります。このCICは、MIT大の卒業生であるTim Rowe氏により1999年に設立され,スタートアップ,ベンチャーキャピタル,スタートアップ支援組織,研究機関などが集積するコワーキングスペースです。CICはボストンにおけるイノベーションのエコシステムの発展に寄与しています。Google, Appleなどもここにオフィスを構えていました。CICはボストン以外にも拠点を築いており,2020年に東京・虎ノ門にオープンしましたので,ご存知の方もいらっしゃると思います。
また、このケンダル・スクエア地区にはエコシステムを語る上で重要な,ライフサイエンスやバイオテック分野のスタートアップのLaunchpad(発射台)となるLabCentral(ラボ・セントラル)があります。このLabCentralは非営利組織で,2013年に設立されました。設立当初は2.8万s.f.の研究室とオフィススペースがあり,現在はおよそ100社のスタートアップと500人の科学者と起業家が入居しています。ここではスタートアップがラボの機材を利用できるだけでなく,ラボのスタッフによる実験サポートを受けることができます。技術面以外でも経営指導を受けられたり,施設内の他社と機材や実験試料などを共同購入によってコスト削減もできたり,スタートアップがイノベーションに集中できる環境を得られます。
LabCentralは,5百万ドルを超すマサチューセッツ州政府組織からの資金援助やRoche社,Johnson&Johnson社などの企業スポンサーを獲得し,活動規模を拡大してきました。2017年にLabCentralは,入居希望の増加を受け7万s.f.に施設を拡張し,その後ファイザー(Pfizer)社のサポートを受け3.3万s.f.のLabCentral610を新たにオープンしました。また,LabCentral Learning Labを開設し,スタートアップ支援以外にもSTEM教育や教員のトレーニングにも乗り出しています。さらに2021年秋には,10万s.f.規模のLabCentral238を開設する準備を進めています。ここはLabCentralで生まれた研究成果を製品化,量産化するGMP[2]に準拠した生産施設となる予定です。
[1]https://www.us.jll.com/content/dam/jll-com/documents/pdf/research/americas/us/jll-q4-2020-boston-life-science-report-new.pdf
[2] GMPはGood Manufacturing Practiceの略であり、アメリカ食品医薬品局(FDA)が連邦食品・医薬品・化粧品法に基づいて定めた医薬品等の製造品質管理基準である。
ボストンのオフィス賃貸物件紹介
オフィスリースに関わる注意点
アメリカには日本の「借地借家法」や「消費者契約法」に該当するテナントを保護する法律がありません。そのため,物件の所有者であるオーナーとテナントとは両者間で取り交わしたリース契約書にある契約事項が,この契約に関わる法的関係を規律することになります。したがって,この契約書に定めていない権利や義務を主張することは原則的には困難となります。オーナーとテナントの間の不要な法廷闘争を避けるためにも,両者は不動産専門の弁護士(Commercial lease Attorney)に交渉及び契約書の作成を委託することが一般的です。この交渉に時間がかかるケースもあり,アメリカでのオフィス賃貸にはある程度の時間が必要であると考えておくべきです。特に,賃貸期間に関してテナント側は短期を望み,オーナー側は長期を望むことが多く,しっかりと交渉し合意することが大切です。5年や10年という長期の賃貸契約を求められた場合,一般的に中途解約は違約金を支払うことになるため,テナント側はサブリースを可能とする条項を契約書に加えるなど,契約時にリスクマネジメントをすることが必要になります。2020年初頭からのコロナ禍のWFHによって不要となるオフィススペースが増えていますが,この不要なスペースをサブリースすることができなければ,テナントは財政的に苦しむことになります。
また,ボストン都市圏のオフィス賃貸のデポジットの相場は,家賃の1ヶ月分から12ヶ月分とだいぶ差があります。これはデポジットがテナントの信用度,オフィスの使用目的,信用保証の方法などにより決定されるため,信用度の低いテナント,ラボのような施設はデポジットが多くなる傾向にあります。デポジットの代わりに,銀行などが発行する信用状(Letter of Credit)を提出する場合もあり,これによりテナントは現金を節約することができます。さらに退去時には,一般的に入居時の状態に回復させることが求められますので,床や天井が剥き出しの物件であれば,契約時にオーナーと交渉し,一般的なオフィスの仕様に内装工事をさせた上で入居するなど,退去時のコスト削減を事前に考えておくことが望ましいでしょう。退去時のコスト削減は,不要な産業廃棄物を増やさないことにつながるので Social goodな取り組みと言えます。
ボストンのようにライフサイエンス分野のラボのニーズがあっても,ラボに適した施設を有する賃貸物件は必ずしも多くないでしょうし,仮に有ったとしてもオーナー側との賃貸契約交渉は時間がかかるかもしれません。そうであるとすると,LabCentralのような施設の存在はTech系スタートアップにはとても大切であろうと思います。
オフィス賃貸物件紹介
ケンダル・スクエア(Kendall Square)
ケンダル・スクエアには,ライフサイエンス系Tech企業以外に,Google社,Twitter社,Microsoft社,IBM社などIT系Tech企業もオフィスを構えています。mRNA(メッセンジャーRNA)医薬品を開発するモデルナ社はこの地区の近隣に所在しています。同社を2010年に共同で創業したデリック・ロッシ(Derrick Rossi)氏はハーバード大で幹細胞の研究を行っていました。Ginkgo社は合成DNA技術を活用し新型の肥料や香水などの開発を支援しているアグリテック企業です。同社は2008年にMIT大の研究者らが共同で設立し,2020年10月ケンブリッジにオフィス・ラボを拡張しました。
ケンダル・スクエアにある1875年に建設された歴史的な建造物。元は,Kendall Boiler Factoryでした。2001年に大規模なリノベーションをし,近代的なオフィス空間に生まれ変わりました。この建物の1階にある5009s.f.(約465㎡)のオフィススペース。1s.f.当たりの賃料は$5で,1ヶ月$25,045(約272万円)[1]です。
[1] $1=108.77円で換算。2021年5月10日の為替レート。
シーポート地区(Seaport)
ボストンの中心街からフォート・ポイント運河を越えたサウスボストン。ボストン市が再開発を推し進めているエリアです。GE社の新本社から数分の距離にあるこのオフィスビルは1894年に建設され,1999年にリノベーション済みです。このビルの5階で3,162s.f.(約294㎡)の賃料は,1s.f.当たり$3.75で,1ヶ月$11,857.5(約129万円)です。別途,管理費等が必要です。
ルート128
ケンブリッジから西へ向かった郊外。かつて電気機器産業がイノベーションの主流だった頃,当時のTech系スタートアップが集積していた地域です。近年ではケンブリッジ・ケンダルスクエアで起業した成長途上のスタートアップがこの地に移転するケースが増えています。そのため,ラボの需要が高まっており,元々はオフィスや工場だった建物をラボに改築するケースが増えています。ルート128の主要な街であるWalthamには,先のBoston Dynamics社が所在しています。この街には2020年10月,遺伝性疾患のある患者のための治療法を開発するバイオテクノロジー企業のダイン・セラピューティクス(Dyne Therapeutics Inc.)も移転を決定しました。
2018年に建設されたラボとしても使用できるオフィスビルです[1]。1s.f.当たりの賃料は$2.71で,1ヶ月$34,620(約377万円)です。名門Brandies大にもほど近い立地です。
[1] http://www.746southstreet.com/
次のイノベーションを求めて
2016年,アメリカを代表する総合電機メーカーGE(General Electric)社は本社をコネティカット州のフェアフィールドからボストンに移転させると発表しました。同社は,産業界でDXが急速に進行し,かつ新興国との競争が激しくなる中で事業の取捨選択の大改革を進めており,イノベーションの原石が集積するボストンを目指しました。新本社の名称は,GE Innovation Pointとされ,マサチューセッツ湾に面したシーポート地区に2.7エーカーの巨大なキャンパスを構えます。まずは2つのレンガ造りの既存の倉庫をリノベーションし,そして不動産投資会社のAlexandria Real Estate Equities社と新たなオフィスビルの開発を目指すようです[1]。将来,ここにオフィスの他に同社のイノベーションの過去,現在,未来を示す博物館を設立する予定です。
およそ400年前,信教の自由を求めたピューリタンがマサチューセッツ湾に到着して以来,ボストンは発展を続け,今日ではハーバード大,MIT大など世界最高の教育・研究機関を中心にイノベーションのエコシステムを育み,世界に多大な貢献をしています。ボストンがリードするイノベーションは,電子機器産業から,ライフサイエンス,ロボティクス,人工知能・ビッグデータ解析,ITへと移り変わりました。ボストンに移ったGE社が今後いかなるイノベーションの未来をこの博物館に展示していくことになるのか。コロナ禍を越えたら,ぜひ観てみたいものです。
[1] https://bpda.app.box.com/s/2ji99t3vrjwh87xskmqlsgpwiz4zejtp
記事作成者
井尻 直彦(Naohiko Ijiri)
日本大学経済学部教授,前経済学部長。専門は国際経済学。静岡英和学院大学を経て,2003年より日本大学経済学部に奉職。OECDコンサルタントなどを経験。日本大学経済学部卒業,英国Nottingham大学大学院修士課程(MSc)修了。2019年よりNPO法人貿易障壁研究所(RIIT)を立上げ,理事長・所長を務める。 |