コロナショックとワークプレイス[シリコンバレー]

2020.10.24

シリコンバレーのコロナショックとワークプレイス

 

1976年に誕生したApple社。先進的なデザインと機能を持つ「Apple Ⅱ」の大ヒットにより日本でも瞬く間に知名度が高まりました。今日ではそのブランド価値は圧倒的です。シリコンバレーのガレージから産声をあげたApple社は,世界の人々にイノベーションの果実を届け続けることにより多大な貢献をし,2020年8月,アメリカ企業としてはじめて時価総額が2兆ドル(約211兆3400億円)を超えました。これまでにシリコンバレーは,HP社,Google社,Intel社,Oracle社など多くの世界的なTech企業を生み出し,今日では,コンピュータ,精密機器産業のみならず,最先端のデジタル技術を基礎に,医療,製薬分野のイノベーションにおいても,その存在感は際立っています。

コロナ禍におけるリモートワークによってシリコンバレーのワークプレイスは変化しています。Facebook社,Twitetr社なども他社と同じように,コロナ禍でスタッフにリモートワークを選択できるようにしており,これを恒久的な働き方とする方向です。 ITの仮想化市場で世界トップのVMware社は,リモートワークが長期に渡るという見通しを受け,新しい働き方に対応した人事給与制度を検討しています。Bloombergによれば[1],同社は社員が家賃・物価の高いシリコンバレーから物価の安い他の都市に転居し,恒久的にリモートワークを選択した場合,各地域の物価を考慮して給与を削減するとしています。また,今後シリコンバレーの他企業も同じような人事給与制度を検討する見通しです。これにより,シリコンバレーの企業が他の都市に住んでいるスキルの高い社員を採用できるかもしれません。そのために,シリコンバレーの企業は地方にも複数のオフィスを構える方針を示しています。これは,ハブ&スポーク型の自社のネットワークを広範囲に構築することを意味し,ニューノーマルにおける新たな人材活用・獲得,ローカル化の戦略となり得ます。

一方で,経営陣もまたシリコンバレー以外の物価の安い地域に住み,給与を削減すべきという声もあがっているようです。しかし,経営陣こそ最先端の知識が集積するこの地に留まるのが懸命と言えるでしょう。

シリコンバレーには長い時間を掛けて醸成された,様々な産業のTech企業を生み出し育てる風土があります。これは,時代に合わせて変化しながらも,輝き続けていくはずです。今後もビジネスの萌芽は世界からシリコンバレーに集うアントレプレナーによって,全米に広がるネットワークを力に,育まれていくでしょう。どこにオフィスを構え,どのようなネットワークを築くか。ニューノーマルのなかで新しい戦略が進められそうです。

[1]           https://www.bloomberg.com/news/articles/2020-09-11/vmware-twitter-cut-pay-for-remote-workers-fleeing-bay-area

 

世界の「アメリカン・ドリーム」のゆりかご

練り上げたビジョン,ミッションの達成のためスタートアップ(起業)し,成長させ,そしてイグジット(経営権を売却)する。それで得た資金で,また新しいビジョン,ミッションの達成を目指し新たに起業する。やや大げさであるが,こうやって世界は起業により創り出されたイノベーションによって成長を続けている,と言っても過言ではないでしょう。これまでも,これからも起業は,世界の人々の生活,社会を改善するエンジンです。ご存知のとおり,シリコンバレーには起業を夢見て世界中からアントレプレナーの卵が集まってきます。シリコンバレーの都市では外国生まれの人口比率が全米平均よりもとても高くなっています。シリコンバレーのダイナミズムは,移民の賜物とも言えるかもしれません。特にアジア系の比率が高くなっています。たとえば,Facebook社では2019年にアジア系の社員が52%と過半数を超えています。また,Apple社,Google社も従業員の約40%がアジア系です。シリコンバレーはとても人種のダイバーシティが高い街です。

 

なぜシリコンバレーに集うのか?

世界からシリコンバレーを目指すアントレプレナーの卵たち。なぜ,シリコンバレーを目指すのでしょうか。

 

シリコンバレー誕生の歴史

そもそもなぜシリコンバレーが西海岸に誕生したのでしょう。これは第2次世界大戦と関わりがあります。この大戦において,軍事技術,とりわけレーダー技術の開発にStanford大学が協力することになり,全米から西海岸に科学技術者を呼び寄せました。そして,戦後にStanford大学が当時では珍しく,積極的に民間企業と連携する方針を採りました。これにより,同大の卒業生や教員がスタートアップ企業を大学近郊に立ち上げ,段々と起業の風土やエコシステムが醸成されてきました。また,卒業生らがヒューレット・パッカード(HP)を立ち上げ,これが「シリコン・バレー」の名称を冠するようになったきっかけと言われています。近年でも,同大出身者が創業メンバーに多いVMware社は,Stanford大の敷地内にある Stanford Research Parkにオフィスを借り入居しています。まさに,同大は,研究者,意欲的な学生らが創り出すイノベーションの孵化器(インキュベーター)となっている。シリコンバレーのスタートアップエコシステムの重要な一旦を担ってきています。

 

Startupの立地選択

Startup企業はどこで起業するべきでしょうか。その立地選択には,人材の確保,ベンチャーキャピタリストの確保,そして顧客の確保,の容易さが重要とされています。

シリコンバレーは,Tech企業が世界一集積する都市。それを生み出す原動力の一つとして,ここにはTech企業が必要とする技術を教える教育プログラムを持つ大学が複数存在することにあります。先程のStanford大学に加え,U.C.大学Berkeley校, Santa Clara大学など有名大学がシリコンバレーの人材の供給源となっています。優れたTech系人材を容易に確保できる。それがシリコンバレーです。

Apple社,Google社,Facebook社,Oracle社などTechジャイアントはシリコンバレーを支える柱,ピラー企業です。このピラー企業は新しいテクノロジーに対する理解力が高く,スタートアップが開発した新しい製品・サービスを利用する可能性が高い。これらピラー企業が初期の顧客になるかもしれない。また,ピラー企業からの出資を受けられるかもしれない。さらに,ピラー企業はスタートアップへ経験のある人材の供給源ともなり得る。加えて,ピラー企業は,情報収集の目的もあり,シリコンバレーの内でのネットワーキングをサポートし,様々なミートアップイベントをホストしています。こうした先輩Techジャイアントの存在は今日のシリコンバレーのStartupエコシステムの醸成に多大に寄与しています。

シリコンバレーには,コンファレンスセンター,リーズナブルな高級ホテル,エンターテイメントが揃っています。この地には,外からの投資家を招きやすい環境が整っています。大学があって,それなりに企業が集積していたとしても,スタートアップがそこで成長するかはわかりません。やはり,投資家から資金の提供を受けられないと非常に困難だろうと思います。あまり指摘されることはありませんが,投資家が訪れやすい街で起業することは大切な要素なのかもしれません。

 

シリコンバレーのオフィス賃料の動向

シリコンバレーは,カリフォルニア州北部に位置するサンノゼからサンフランシスコに広がるベイエリアの複数の都市で構成されています。以下では著名なTech企業と有望なスタートアップ企業がどのような都市に立地しているか紹介していきます。以下で紹介する都市は外国生まれの人口比が40%以上と,全米平均の14%を大きく上回っています。シリコンバレーのダイナミズムは,人材のグローバル化の賜物とも言えます。

 

表1:主要都市の平均賃料,空室率(2019年・2020年第2四半期)

主要都市の平均賃料と空室率

出所:JLL(2019、2020)

 

2020年第2四半期における前年同期比のオフィス賃料は,シリコンバレー全体的には,賃貸オフィスの市場は安定的に推移しています。例えば上述したシリコンバレーの各都市のオフィス賃料を2019年と比べると,第2四半期の時点ではあまり変化がありません(表1)。ただし,他の都市と同じように今後の市場動向は不透明です。おそらく,市場の動向を見定めている貸手が多く,借手が減少していても賃料を下げて急いでテナントを探すまででもないのでしょう。賃料は下がっていませんが,空室率は前年同期比で高まっています(表1)。

JLL社の調査によれば,借手はオフィス拡張計画の見直しを検討しているところもあり,コロナ禍で開いたスペースをサブリースするところも増えてきています。調査の段階で,約40万s.f.がサブリースで市場に供給されており,このうち40%が2.5万s.f.以下の比較的小さい物件です。サブリースは賃貸オフィス市場の3%弱しか占めていません。第2四半期に賃貸契約が成立した物件の平均的サイズは1.25万s.f.と,これは前期の半分ぐらいのサイズです。コロナ禍で,経済の先行きが不透明であることもありますが,ニューノーマルにおけるリモートワークによって必要とされるワークスペースが減っているのでしょう。

 

Cupertino(クバチーノ)市

クバチーノ市は,人口6万人弱のシリコンバレーでは比較的小さな都市です。過去10年間の人口増加率は1.2%と全米平均の6.3%と比べてかなり小さくなっています。クバチーノ市の平均所得は約68,000ドルと全米平均の2倍以上であり,物価が高く決して多くの人々に住みやすい街ではないでしょう。クバチーノ市といえば,Apple社の本社である「Apple Park」が立地していることで有名です。これは,71ヘクタールの敷地面積,280万 s.f.(26万平米)のオフィス面積を有する広大な「キャンパス」です。このクパチーノに立地する比較的新しい有望なスタートアップ企業に2016年に起業した輸送用トラックの自動運転技術を開発している plus.ai 社があります。クパチーノ市には,同社のようなIT系の有望なスタートアップが,Apple社の存在が影響してか,比較的多く立地しています。

Apple社・AppleParkのすぐそばの賃貸オフィス物件。14,053s.f.(約1,306平米)ある大型の物件です。これはサブリース物件で,契約期限は2025年7月と比較的長期の契約となります。賃料は$5.35/月で1ヶ月$75,184(7,931,865円)となります。共益費等は賃料に含まれています。JLL社の2019年の調査によれば,この街の1s.f.当たりの平均賃料は$5.10/月です。

クバチーノ クバチーノ市のフロアプラン

 

Palo Alto(パロアルト)市

Stanford大学があるパルアルト市。ここは前述のようにシリコンバレーの発祥の地であり,今日においても中心地であると言っても過言ではありません。先に触れたHP社やVMWare社以外にも多数の企業がオフィスを構えています。現在,世界が注目しているTesla社の本社もここにあります。注目されている新しいスタートアップ企業では,Step社やProductiv社などが立地しています。企業内でSaaS利用の最適化を進め業務効率の改善を促すProductiv社。10代の子供たちが現金を使わずに保護者の管理下でスマートフォンで安全に買い物ができる決済システムを提供するStep社。それぞれ2018年に起業したばかりですが市場から注目を集めています。パロアルト市は,シリコンバレーの中でも最も所得水準の高い街であり,全米平均の3倍に近い約9万ドルとなっています。人口規模は6万人,人口増加率と1.5%とクパチーノ市と同程度となっています。ただし,大卒以上の学歴を有する人々が市の人口の80%を占めており,パロアルト市は全米でも最もハイソな都市の一つとなっています。

シリコンバレーで最もオフィス賃料の高いパロアルト市。最新のJLL社の調査によれば,この街の1s.f.当たりの平均賃料は$9.38/月です。これはオフィス面積が3階建て3階で1,380s.f.(約128平米)の物件です。賃料は$8.33/月で1ヶ月で$11,495(1,212,765円)となります。共益費等は賃料に含まれています。

パロアルト市の建物 パロアルト市の建物内装 パロアルト市の建物平面図

 

Mountain View(マウンテンビュー市)

マウンテンビュー市。この地からSanta Cruz山脈を望めることからその名がついたそうです。ここには,Microsoft社,LinkedIn社,Symantec社,そしてGoogle社などのオフィスが立地しています。特にGoogle本社である Googleplexは約2百万s.f.のオフィススペースを有しており,Apple Parkに匹敵する規模です。さらに注目の新しいスタートアップ企業には,ARC()社,Dockup社,Dusty Robotics社などがあります。たとえば,ARC()社はリモートで働くことを前提に,独自の評価システムで世界中から選抜した高スキルのIT技術者を紹介し,企業の採用コストを大幅に削減するサービスを提供しています。マウンテンビュー市の一人当たり所得は約7.4万ドルとパロアルト市よりは低いですが,全米平均の約2.5倍ととても高くなっています。人口規模は8.2万人程度,人口増加率は10%を超えています。物価の高いシリコンバレーにしては人口流入のペースは高いほうです。

GoogleplexがあるMountain View。9,588s.f.(約891平米)の物件です。賃料は$3.95/月で1ヶ月で$37,873(3,995,559円)です。共益費等はこれに含まれていません。YAHOO社はこの物件で誕生したそうです。最新のJLL社の調査によれば,この街の1s.f.当たりの平均賃料は$7.28/月です。

マウンテンビュー市の建物 マウンテンビュー市の建物平面図

 

Santa Clara(サンタクララ市)

サンタクララ市には,intel社とAMD社という世界中のPCに搭載されているCPUを設計・生産している巨大Tech企業が立地しています。また,先日ソフトバンクグループから英国ARM社を買収したことで有名になった,GPUを設計・生産するNVIDIAも立地しています。加えて,サンタクララ市の有望なスタートアップ企業にも,2019年に起業したばかりの,次世代の高効率CPUを設計しているNUVIA社があります。驚くべきことに,世界中のPCの処理能力を決定する心臓部のほとんどをサンタクララ市で設計しています。 SantaClara市の人口は約13万人と上述の都市よりも大きく,一人当たり所得は5万ドル弱と他の都市よりは低くなっています。人口増加率は約12%と高い値となっています。

リノベーションされたばかりの11,887s.f.(約1,103平米)の物件。EV用の充電スペースも完備されています。賃料は$4.35/月なので、1ヶ月で$51,708(5,455,241円)となります。共益費等は別です。最新のJLL社の調査によれば,この街の1s.f.当たりの平均賃料は$4.86/月です。

サンタクララ市の建物 サンタクララ市の平面図

 

シリコンバレーのグラビティ

今後,上述したように,長期化するWFHの影響によりシリコンバレーのピラー企業がハブ・アンド・スポーク型のネットワークを構築していくと,さらに賃貸オフィス需要は減少すると考えられます。しかし,今後も本社機能は依然としてこの地に残ります。そのため,世界中からアントレプレナーの卵たちはこれからも「アメリカン・ドリーム」を夢見てシリコンバレーを目指すでしょう。シリコンバレーは今後も最先端のテクノロジーによってイノベーションを起こすスタートアップ企業を惹きつけていくでしょう。これからも,このようなスタートアップ企業のオフィス需要は減ることはなさそうです。「シリコンバレー人材」はシリコンバレーに引きつけられます。

 

《参考文献・データ》

https://www.businessinsider.com/tech-offices-post-coronavirus-hub-spokes-satellite-model-experts-2020-9

https://www.wired.com/story/five-years-tech-diversity-reports-little-progress/

 

記事作成者

井尻直彦教授

井尻 直彦(Naohiko Ijiri)

日本大学経済学部教授,前経済学部長。専門は国際経済学。静岡英和学院大学を経て,2003年より日本大学経済学部に奉職。OECDコンサルタントなどを経験。日本大学経済学部卒業,英国Nottingham大学大学院修士課程(MSc)修了。2019年よりNPO法人貿易障壁研究所(RIIT)を立上げ,理事長・所長を務める。
【NPO法人貿易障壁研究所(RIIT)】https://riit.or.jp
【研究業績】Research map https://researchmap.jp/read0193441
【個人Twitter】https://twitter.com/naoijiri
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